映画感想 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

2021年6月7日 もう1度観てきたので、「感想(追記)」を追加しました。
2021年6月8日 「感想(追記2)」を追加。
2021年6月10日 「感想(追記3)」を追加。
2021年6月15日 案内まわりを書き換えました。
2021年7月8日 「感想(追記4)」を追加。

 

公式サイトリンク

少女☆歌劇 レヴュースタァライト公式サイト

公式ツイッター

 

シリーズを観てない方への案内

以前の記述

Q. いきなり『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てもいいですか?

A. よくないです。以下の順番で観るのが理想的だと思われます。

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(TVアニメ版、全12話)
  ↓
 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』(劇場版、”再生産総集編”)
  ↓
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

 最低限、TVアニメ版か「ロンド・ロンド・ロンド」のどちらかは観てからのほうがよいです。
 どちらかといえば、やはりTVアニメ版のほうが尺が長くてしっかり分かるためオススメです。

Q. いきなり『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観てもいいですか?

A. よい、とする意見も多いです。
 ストーリーには前作との繋がりが多分にありますが、
 すばらしい映像や音楽など、何も知らなくても十分に楽しめる要素があります。

 アニメ作品としては、以下の順番で物語が繋がっています。

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(TVアニメ版、全12話)
  ↓
 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』(劇場版、”再生産総集編”)
  ↓
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

 TVアニメ版か「ロンド・ロンド・ロンド」のどちらかを観れば、物語を把握できると思います。
 どちらかといえば、やはりTVアニメ版のほうが尺が長いぶんよく分かります。
 そもそもTVアニメ版も「ロンド・ロンド・ロンド」もすごく面白いので、オススメです!

 TVアニメ版を観てから『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観たほうが、
 物語がより分かって楽しいことは間違いないです。
 しかし、とにかく最新の『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』をまず体験してみて、
 それで興味を持ったらTVアニメ版も観てみる、というのもアリだと思います。

 映画館で2回目を観ても十分楽しい、というか1回目よりも更に楽しいかもしれないので、
 あとからTVアニメ版を観た場合でも、
 もう1回『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観ればOKです!

 

 

TVアニメ版、「ロンド・ロンド・ロンド」ともにdアニメストアにで配信中

TVアニメ版(dアニメストア)
「ロンド・ロンド・ロンド」(dアニメストア)

 

 

 

 

シリーズを観ている方への案内(ここからネタバレ注意)

Q. TVアニメ版(もしくは「ロンド・ロンド・ロンド」)を観ています。
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観たほうがいいですか?

A.  観たほうがいいです。

 

以前の記述

Q. TVアニメ版以外(舞台版、ソーシャルゲーム版など)を知っています。
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観ても良さそうですか?

A. よくないです
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はTVアニメ版の直接の続きになりますので、
 他の作品だけだと前提情報が足りないと思います。

Q. TVアニメ版以外(舞台版、ソーシャルゲーム版など)を知っています。
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にそれらのキャラクターは登場しますか?

A. 登場しません
 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はTVアニメ版キャラクターのみの登場となります。
 (学校名だけはチラッと出てきます。)

 

 

 

 

感想

 最高でした!!!!!

 以下、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を「劇場版」と表記します。

 

評価

総合評価:★★★★★
面白さ :☆☆☆☆☆
すごみ :☆☆☆☆☆
手軽さ :☆☆☆
当ブログにおける作品の評価基準についてはこちら(別記事)

 ※劇場版単独ではなく、TVアニメ版を含めた評価です。

 

演出がすごい

 アニメってこんな演出できるんだ!!と驚くような演出が連発……映像として、観てて飽きない!楽しい!序盤からすごいですが、さらにレヴューの始まる終盤はすごい。すごいとしか言いようがない。今見てるレヴューも楽しいのに、次のレヴューも早く観たい!と思わせる圧力がありました。

 舞台装置もかっこいいしキャラクターもいちいちかっこいい。全部かっこいいんですが、特に印象に残っているキャラクターのシーンを挙げると、パンツルックの西條クロディーヌが、ただ立ってるだけでも超カッコよかった……。あと露崎まひるのジト目!底知れぬ怖さが完全に演出されている。そして星見純那が近接武器を手に取るシーン。絶対やってくれると思った!

 

TVアニメ版エンディングを損なわない

 TVアニメ版の時点で大団円エンディングを迎えていた作品ですから、続編が出るとなると、エンディングのせっかくの幸福感が損なわれないか心配でした。しかし杞憂!99期生が必然的に向き合うことになるであろう課題をテーマにすることで、TVアニメ版で解決した問題を蒸し返すことなく、99期生の話を更に押し進めて、一歩進んだエンディングを見せてくれました。これはかなりすごい脚本だと感じます。嬉しいですね!

 一つの目標を終えて、大きな達成感を得たあと、どうするのか?そこで燃え尽きてしまうのか?という感じのテーマ。観ている私達にも響いてきますよね……。私もがんばらなきゃ!と前向きな気持ちになりました。

 TVアニメ版は全12話あってこそあれだけの物語を描けたのであって、劇場版1つだけでは大きな物語は描けないのでは?描けるキャラクターは一部だけになってしまうのでは?という不安もありました。そこも杞憂で、全キャラ十分に出番がありましたね!あくまでTVアニメ版で世界観が説明してあるから、というところはありますが、劇場版1つで物語の分量としても大満足でした。

 ただし、9人をしっかり描いたぶん、新キャラクター(舞台版の登場キャラクターや、ソーシャルゲーム版の登場キャラクター)の活躍はありませんでしたね。それはまあ、やむなしかつ、英断だったように思います。人数をこれ以上増やすと話がまとまらなくなりそう。後輩キャラや9人以外の99期生キャラクターが喋ったりはしましたね。あと一般人男子キャラクターも登場!珍しい。そういえば、B組の眞井霧子(演出)と雨宮詩音(脚本)の組み合わせは大いに補強されましたね……。

 

強キャラの建前を暴いて本音を言わせるのって……

 最高ですね???登場人物全員強キャラですけど!主要9キャラ一通りこれをやった気がします。最高なのを9人分食らって最高になりました。最高です。

 そんな暴き合いが最高な各レヴュー戦は、TVアニメ版の対戦カードを引き継いだ上で、勝敗が逆転している感じでしたね。弱かったほうが勝つ展開メチャクチャ熱いですね???そして、どの戦いも納得感がある……。たまりませんね。

 9人みんな熱かったので一人一人感想を述べたい気持ちもありますが、ここも特に印象に残ったセリフを挙げてみます。記憶で書いてるので言葉は正確でないかも。まずは天堂真矢の「私はいつだってかわいい!」、これはもう最高。星見純那VS大場なな戦はセリフ全部がカッコよかった。そして物語の大トリ、愛城華恋の「ひかりに負けたくない」!オア~~~~~心の底の本音~~~~~~~

 

愛城華恋の狂人(?)描写!!

 TVアニメ版で少し気になっていたのが、「主人公・愛城華恋の強さの描写が物足りないな」というものでした。聖翔音楽学園に合格して、俳優育成科のクラスで上から8番目(9番目)までに入るんですから相当なものであることは分かるのですが、アニメ内での描写は多くはなかったように思います。

 そう感じていたところに、愛城華恋の強さがはっきりと伝わってくる過去編が、劇場版で描かれました!「見ない・聞かない・調べない」(だっけ?)という自分ルールを10年以上も守りながら、一通の手紙だけを心の拠りどころとして努力し、最高峰である聖翔音楽学園に合格したという狂人めいた執念。主人公たる素質、秘めたる得体の知れない力の根拠、そのあたりの説得力が増してよかったです。

 また、過去編の描写では、小ネタも多く補充されましたね。神楽ひかりのミスターホワイト好きは5歳の時から続いているとか(ミスターホワイトは10年以上続いている人気キャラクター!)、愛城華恋は青嵐総合芸術院の受験も考えていたとか……。ソーシャルゲームで出てきている学校も、名前だけは出ていましたね。

 

まとめ

 できるだけ期待しすぎないようにして観に行ったのですが……ガチガチに期待して行ったとしても、十分に期待を上回ってくれたであろう名作でした!!映像がすごくいいので、もう1回観に行きたい気分です。これはすごい。各キャラクターが一段と好きになりましたし、なんだか元気ももらえた気がします。いい映画だ!!

 少女☆歌劇 レヴュースタァライトはすばらしいコンテンツ!!

 

感想(追記)

 映像体験がとてもよく、すぐにもう1度観たい気持ちになったので、観てきました。入手しそこねたパンフレットを購入する意図もあったのですが、当然のように売り切れていました……。仕方ない。それゆえ、この記事はすべてパンフレットを読んでいない状態で書いておりますので、もしパンフレットに書いてある内容と矛盾するような感想を書いていても、笑って見逃していただけると幸いでございます。

 2回目を観たり、あるいはツイッターで他の方の感想を見たりして、見え方が少しは深まった気がします。あらためて、シーンや演出ごとに良かったところとか、考えたところを書いていこうと思います。全編を通じて思うことを一つ先に書くと、TVアニメ版の名シーンを想起させるBGMがところどころで挿入されていて、天才だと思いました。映像や演技もすごいけど、サウンドトラックがまた、とんでもなくすごい……。

 

舞台少女の死関連

 トマトの潰れた状態が「舞台少女の死」、すなわち演じることをやめてしまった舞台少女のことを指すものと思います。そして、作中でおのおの契機を得て、再び演じる意欲を取り戻したことを表すのが、トマトをかじる演出。

 大場ななの「喋りすぎだよ」が、映画を観た1回目では雰囲気程度にしか分からなかったのですが、おそらく「喋る」は「演じる」の対義語として使われてるのかなと思いました。第100回聖翔祭という一つの節目を終えて、演じることをやめてしまっている。「おやつの時間は終わり」とも言っているように、早い話が「気が抜けている」ということかな?舞台少女にとって、演じることが終わることはない。日常生活ですら常に演じている必要がある。物理的な意味で舞台の上にいなくとも、私達はもう舞台の上……という感じで捉えました。更に噛み砕くと、大場ななの圧力は「今のお前ら、夢を語るばかりで、実際に舞台を掴もうとする努力が足りてなくねーか?自分が舞台女優であるというよりも、舞台のファン気分になってねーか?」みたいな印象です。

 これは関係ないことなんですが、スタリラ(ソーシャルゲーム版)の登場キャラクター「田中ゆゆ子」の誕生日が、劇場版公開日の翌日の6月5日でして、かつ好物(効果の大きいプレゼントアイテム)がトマトなので、スタリラではトマトが配られたりしていました。劇場版の内容と田中ゆゆ子はまったく関係ないので、単なる偶然の一致っぽいですね……。本来は5月21日上映開始の予定でしたしね。作中で、愛城華恋と神楽ひかりが最初に一緒に観たスタァライトが5月12日かそこらの上演だった気がします。本来はこの日に上映開始したかったのかな?なんて思ったりしました。

 

ワイルドスクリーンバロック

 そんなわけで、大場ななの最後の再演にとって詰めの大仕事(最後の仕事は純那戦)、気の抜けたお友達に活を入れる一芝居です。(のちに判明することには)舞台の外にあっても「求められる理想の舞台少女像」を演じていたという天堂真矢を除いて、腑抜けて演じることをやめてしまっていた舞台少女達は、大場なな一人にあっさり星を奪われてしまいます。しかし大場ななが言うように、これは別にオーディションではなく、単に活を入れただけ。舞台少女たちの今の姿を、本人らに自覚させただけといった感じです。ここでの舞台少女達は、かなり見苦しく描かれていますね。攻撃を仕掛ける大場ななと、それをかろうじて迎撃できる天堂真矢以外は、ろくにセリフも言えません。

 このワイルドスクリーンバロックの開始時の演出!大場ななのボスとしての登場シーンがめちゃくちゃカッコいい!6人の舞台少女が困惑している姿に続けて、逆光で照らされる堂々たる大場ななの姿。足で音楽に合わせてリズムを取っているように見えますが、最終的には半分の拍子で切り上げてしまう。先頭(列車)を走る大場ななは、他の6人を待っているのに、いつまで経っても来ないから、苛立って待つのをやめてしまった……そんな演出になっているような気がします。最初は1本の刀で戦っているのに、それでも乗ってこない舞台少女達に業を煮やして本来の二刀流になるところなんかも「待ちくたびれてしまって、実力行使に出た」という雰囲気を感じますね。二本目の刀が射出される演出も超かっこいい……。

 TVアニメ版で(更には「ロンド・ロンド・ロンド」でも)「怖い大場なな」を見せられているものですから、ここで再び大場ななが舞台少女達に刃を向けるところに、あらためて恐怖を思い出させられます。既に展開を知っている2回目でも、やはり迫力がありました!

 これはオーディションではないわけですが、じゃあ何なんだろう?個人的には、劇場版に出てくるレヴューはもはや「心象風景」みたいなものなのではないかと思っています。実際に起きていたことは、地下鉄内で仲間達(愛城華恋を除く)を大場ななが叱咤激励した……それだけ。みたいな。キリンのオーディションは彼女らにとって現実だったかもしれませんが、その後、今回の劇場版の出来事については、彼女らの記憶の中にあるキリンのオーディションが、次の舞台へ進む原動力の燃料となった。その強烈な感情の動きを、観客である私達はレヴューというイメージで目撃している……。そんな感じ。ただの解釈なのでこれはどうでもいいんですけども。野菜で組み立てられたキリンの像が出てきますが、もはやキリンは実在しておらず、彼女たちの中で燃料となる一つの思い出に過ぎないという演出なのかなと思いました。

 「ワイルドスクリーンバロック」という語については、これもなんとなくですが、「本来の舞台(劇場のステージ上)の外側をも含めた、ハデな舞台」みたいな意味かなぁ……と思っています。正直わかっていないです。アルファベット表示では「wi(l)d」となっており、「ワイルド」と「ワイド」の二つの意味があるっぽい感じはします(「幅が広い」を意味するワイドは、widではなくwideですが……)。

 大場ななが3回繰り返す「なんだか強いお酒を飲んだみたい」については意図を汲みきれていません。本人の言葉ではなく台詞として言っているようですが、大場なな本人の気持ちなのか、それとも相対する6人が、第100回聖翔祭の成功で酩酊してしまっていると指摘しているのか?

 

石動双葉 VS 花柳香子

 TVアニメ版からそうでしたが、この二人はなんだか二人で完結してしまっていて、世界観が他から独立してしまっている感じがありますね……。いちおう、西條クロディーヌが絡んではいるものの。

 とはいえここも演出がすごくいい(全レヴューの感想がこうなってしまうのですが……全レヴューが、違った形ですごくよく、どれも好きなんです。信じてください)。髪型のころころ変わる花柳香子が嬉しいですね。石動双葉がデコトラ運転手として登場した時のクッソダサいポーズ、最高です。「セクシー本堂」て。ここで石動双葉の綺麗事を論破し、石動双葉が抱える後ろめたさに迫る……「(私のことが)めんどくさくなったんでしょ?」という時の花柳香子の笑顔、なんたる恐怖!

 そしてこのレヴューの最高潮はやはり、これら舌戦の決着点、お互いがデコトラをバックにライトアップされ、仁王立ちして縁切り宣言!ここのデコトラのライトアップ演出が音楽ライブやパレードのような鮮やかさで脳が灼けます。こういうピカピカするのに私は本当に弱い。デコトラに掲げられた文字もダサかったりかわいかったりで感覚が揺さぶられます(「あいむあんぐりぃ」好き)。そして最後は互いがデコトラに乗って激走、ダサすぎるのにインパクトが無限大。これがレヴュースタァライト、これが石動双葉と花柳香子。花柳香子のデコトラだけ清水の(?)舞台から飛び降りてしまいますので、チキンレース対決という描写なんでしょうか。

 結局は、「今度は私が待たせる番」として石動双葉が花柳香子を言いくるめます。この、押し倒された形になった花柳香子の表情たるや!!!あれだけ憎たらしい言動をしておいて、この……この……乙女顔!!!うーん顔がいい。襲名決定。そしてこれは他の方の感想を見て知ったのですが、双葉が託すバイクのキーのストラップが、香子の左手の薬指に掛かっているんですね。もう好きなだけやってくれ……。

 

神楽ひかり VS 露崎まひる

 アアッ……オリンピック前提の脚本ッ……やってしまったッ……!とはいえギリギリセーフでしょうか。作品の世界内ではオリンピックの開催が滞るような出来事もありませんからね。むしろ1年延期を活かしているのか……?元々露崎まひるは野球観戦が好きという設定、スポーツ全般に拡張されることには違和感はありませんね。

 前半はTVアニメ版での愛城華恋VS露崎まひる戦のように、スポーツを模した明るい戦い(ひかりとまひるが並ぶ障害物走のシーンでは、胸の薄いひかりと、かなり”ある”まひるの対照的な描写が……)。そして一向に演じる気を見せない神楽ひかりに対し!星を奪ったにも関わらず!ホラーまひるに突入!!!この演出に耐える楽曲が用意されているのがすごすぎる。どういう注文、そしてどういう完璧な納品なのか。

 勢いとはいえミスターホワイトの首飛ばしちゃってますけど、神楽ひかりさんそれは大丈夫なんでしょうか(「よんこますたぁらいと」の神楽ひかりだったらブチギレてそうだな、と思った)(私は「よんこますたぁらいと」がめちゃくちゃ好き)。

 ホラー演出がもちろんすごくいいし、最終的に高所から突き落とされて、実質的に死んだ神楽ひかりを受け止めるのが巨大ミスターホワイトなのもいい。ちょっと話が飛びますが、幼ひかりが勇気を出して幼華恋を舞台鑑賞に誘おうという時、ミスターホワイトのポーチを撫でていますよね。5歳の時から、神楽ひかりにとってはミスターホワイトが心の拠り所だったのであろうと思います。死の恐怖を経験して、ついに神楽ひかりは語り出す、愛城華恋への感情の真相を……。

 そうして本音を語らせて自覚させたところで、露崎まひるはいつもの優しさに戻って、神楽ひかりに星を返還し、応援して送り出す……。聖人。姉ぢから全一。新国立入団。ここで不穏に思うのが、露崎まひるが自分の演技力に対して謙遜するところ……。「ホラーまひる」は完全な演技ではなかったのでは??一部は本心なのでは??(けっこうな割合で本心だった気がする……)

 

星見純那 VS 大場なな

 まずそもそも劇場版を通じて大場ななの演技がすごい。化け物だと思う。とてつもない。ガオー。で、ここでそれに対峙する星見純那も負けてない。すごい。

 すごく雑な言語に翻訳すると、「早稲田進学てwwwwwwキミもうあかんわ、辞めたらこの道?」「うるっせーー!!!!!これが私の道じゃい!!!!!」「は?かっこよ……ワイの青春終わったわ……」みたいな感じだと思うんですが、この攻守がたびたび変わる感じがいいですね!最初から星見純那が守勢なわけではなく、むしろ序盤は反撃に転じている。しかしやはり大場ななの才覚は伊達ではなく、再度自刃を勧められてしまう……あーあ、泣いちゃった。

 武器のエネルギー源みたいなのを壊される→それを別の武器に移植して戦い続けるみたいな展開が嫌いなオタクいますか???それも、遠距離職だったキャラクターが近距離武器を手にする、その武器はあろうことか敵の二刀流の片方。天才かな?どんなに進路をくさされようと、どんなに才能の差を見せつけられても、どんなに涙が流れようと、そのたびに立ち上がる限りはいずれ勝てる。ゾンビ戦法。無限コンティニュー。輝く星に目を灼かれて何も見えてないのはどっちだ?お前だ!なぜなら輝く星は私だからだッ!!!星見純那……。眼鏡が弾き飛ばされるのに、裸眼シーンはなく、次映る時には既に眼鏡をかけ直してるの圧力がある(星見純那は別に裸眼を晒さないキャラクターではなく、むしろ役に合わせて裸眼にする人物である)。

 エンディングでは星見純那はアメリカ留学をしており、実際に早稲田大学文学部に進学したのかは不明です。早稲田大学からアメリカに留学していると考えるよりは、そもそも進学先を考え直してアメリカ留学にしたと考えるほうが自然でしょうか?進路相談当時の自分の考えを貫き通したというよりは、大場ななとのレヴューを通じて、「自分には自分の道がある」との考えは保ちつつ、具体的な進路については考え直した感じがしますね。大場ななも、悩みつつも第一志望として記入していた新国立ではなく、ひかりと同じイギリス留学という進路を選んでいます。このレヴューが二人の進路に影響を与えた様子が窺えてよいですね。星見純那はアメリカでミュージカルをやっていますが、これは純那の「舞台のことを広く知りたい」という考えから来ているのでしょうか?

 そして、こうして進路を別にしたことで、二人の関係も終わってしまうわけです。「いつか別の舞台で」としつつ。これ……いわゆる交際状態が破局した描写ですよね???そこまで読み込む必要はないでしょうか……。で、思うんですけど、大場ななというのは、「別れの悲劇なんて嫌い」としつつ、それゆえに、彼女に深く焼きついてしまうのもまた別れの悲劇なのではないでしょうか。第99回聖翔祭のスタァライトもまた、大成功した別れの悲劇として大場ななに焼きついて、それゆえに、いくら大団円を目指しても、同じまぶしさには届かない。愛した星見純那との決別に至って、皮肉にもついに、第99回聖翔祭にも勝るまぶしさに到達する。みたいな。ただ、この考察だと大場ななが今後あまり幸せになれなそうな気もする。幸せになってください……。

 

西條クロディーヌ VS 天堂真矢

 戦いの次元が違う。他のレヴューは主に精神面でぶつかりあってる気がしますが、ここは精神面に加えてフィジカルでバチバチにぶつかっている。やはり天堂真矢。やはり西條クロディーヌ。

 正直言ってこれはクロディーヌのレヴュー。しかし西條クロディーヌが覚醒して天堂真矢の本質を暴くことが、天堂真矢の魅力をも更に引き出す。ライバルの描き方のうまさが異常。クロディーヌが覚醒して天堂真矢のレベルに到達する→と見せかけて、それは仮初めの天堂真矢。真の天堂真矢はもはや人の領域を超えていた→うるせーしらねー無限沸きクロディーヌ。それもまやかし!本当に本当の天堂真矢は誰よりも人間くさい感情まみれの化け物だ!→バラすなや!!!そなたは美しい……。何これ?映像が全てを完璧に語っており、私は特に何も言うことがない。最高Battle

 追記前の感想でも言いましたが、「悪魔」の役で登場するスーツの西條クロディーヌの立ち振る舞いがマジでかっこいい。そらフランスの劇団からスカウトの声もかかる。一方、衣装も化粧も自由自在に変えていく異能の天堂真矢も当然負けてない。あまりにも強キャラ。このレヴュー順になるのも納得。

 エンディングにてクロディーヌはフランスにおりますが、自室の窓とおぼしきところにアヒルちゃんを置いている。これは天堂真矢の鳥を意識した置物でしょう。真矢クロフォーエバー。フォーエバー真矢クロ。無限にやって欲しい。このままでは西條クロディーヌ率いるフランス劇団と天堂真矢率いる新国立とで日仏戦争が起きてしまう……。起きてくれ……。

 

神楽ひかり VS 愛城華恋

 ここが難しいのですが、私なりの解釈を垂れ流してみます。それはそうと、11歳?の時、劇団アネモネで主演した時の愛城華恋の髪型、かっこよくてかわいいですよね。

 劇場版において、愛城華恋はラスボスの描かれ方をしていると思う。特に個性のなかった少女が、善意とはいえたった一つの約束で、キラめきの怪物になってしまう。神楽ひかり、責任取れ!女見せろ!みたいな……(やや言い過ぎ)。

 幼い神楽ひかりは、(TVアニメ版にて語っていたように)少し自慢したいがために、愛城華恋に舞台を教えてしまう。結果的に神楽ひかりは夢を再び追えるようになったが、同時に愛城華恋にも夢を追わせることになる。そしていわば、その責任を取らなかった(舞台女優の夢を諦めなかった点では責任を果たしているが、愛城華恋に舞台女優を目指させたことについてなんらフォローをしなかった。もしかすると何かしらフォローしていたかもしれないが、二人のルールを愛城華恋が解釈した結果、愛城華恋はそれを受け取らないことにしていた)。そうしていざ、成長した愛城華恋を見て、あまつさえ愛城華恋を恐れて逃げた。ひかりちゃん?(まひる)

 ここでいう神楽ひかりが愛城華恋を恐れたというのは、愛城華恋が舞台女優として成長しており、ファンになってしまいそう、という恐れ方とのこと。言い方を変えれば、愛城華恋の成長が思ったより著しく、その成長性を恐れたとも言える?私が映画から受けた印象としては、愛城華恋のその義理堅さ、執念、我慢強さが途方もなく、その類まれなる意志力にも恐れを抱くところですが、神楽ひかりが恐れているのはそういったところではないっぽいですね。

 それで、キリンに呼ばれ露崎まひるに脅迫され、今度は逃げずに愛城華恋に立ち向かうことになります。一旦は愛城華恋の舞台少女としての死を目撃してしまいますが、もう一度手紙を書くからといって見送り、そうして愛城華恋の再生産が始まる……このへんちょっと分かってないです。神楽ひかりが何かしらの工夫をしたというよりは、愛城華恋が自身の中で過去を振り切って、ジェットエンジンに点火したように見える……?

 ┃_┃

 視点が愛城華恋に移ります。「自分の舞台」を見つけるための列車の中で、過去の愛城華恋からトマトを受け取る。そして、次の駅に到達するために、過去のすべてを燃やしながらジェットエンジンに点火。このとき、点火される前のジェットエンジンが目のようで不気味ですね。今までの(第100回聖翔祭までの)愛城華恋の原動力であった約束、「神楽ひかりの手紙」すら焼き払って(それを燃料として)、愛城華恋の列車は猛烈に加速。東京タワーの足下の傾斜?東京タワーを横に倒したもの?を利用して高く登り、神楽ひかりの待つ東京タワーへ……。

 愛城華恋の列車のレールの先には常に東京タワーがありました。おそらく東京タワーは約束の象徴であり、かつ神楽ひかりそのものの象徴でもあるのではないでしょうか。「神楽ひかりとの約束を果たす」ことが今までの愛城華恋にとっての舞台で、東京タワーを目指して進めばそれでOKでした。そして、東京タワーの手前で列車がレールを外れて横転。これは、第100回聖翔祭で約束を果たし、目的となる舞台を見失った愛城華恋の比喩かと思います。それで、再生産された愛城華恋が見つけた「自分だけの舞台」の答えこそは、愛城華恋の原初の感情である「私もひかりに負けたくない」、すなわち神楽ひかりを追いかけ、さらには追い抜くことだったものかと思います。列車を加速させて東京タワーにぶつけたのはそういうことかなと思います。

 神楽ひかりにとってこの舞台での役割は、背中を追いかけてくる愛城華恋から逃げず、まっすぐに向き合う。すなわち、愛城華恋の「憧れ」として、「敵」として立ち塞がってみせることだったんですかね。それが幼い愛城華恋に対して約束という呪いをかけた人間としての、責任の果たし方だったのではないかとも思います。結果、愛城華恋は剣も折れ、神楽ひかりに短剣を突き立てられてしまいますが、ついに東京タワーの約束の呪縛を逃れ、そのままポジションゼロへ……この「東京タワーの上部を発射して逆向きにしてポジションゼロしたらすごくね?w」の発想、すごいんですけど、1回目に見た時はすぐには分かりませんでしたね……(笑)

 愛城華恋再生産の代償は大きいと思います。それは主に神楽ひかりにとって?愛城華恋も、神楽ひかりも、次の舞台を見つける代償として「交換した運命のチケット」、すなわち髪飾りを手放しています。紛失するわけではありませんが、今までずっと髪飾りとしてつけていたものを、どちらもバッグに付け替えていますね。「今までほどは大事でない」位置に移動していると言っていいと思います。そして(これも他の方の感想を見て気付かされましたが)、エンディングスタッフロールにおいて神楽ひかりが世界中の仲間に会いに行く旅行中においても、愛城華恋は神楽ひかりと会うことよりも、次の舞台を目指すためのオーディションを優先する。優先順位が、「神楽ひかり最優先」ではなく、「舞台少女であり続けること最優先」になったという感じでしょうか。

 言ってみれば、他の舞台少女についても近いことが言える気がします。およそ明白なカップリングが存在している作品ですが、いわば甘い恋人時代は聖翔音楽学園に在学中の一時の思い出。舞台少女を目指すにあたって、少女達は、恋路よりも自らの夢を優先することになる……という感じ。どのカップルも遠距離。苦い!!苦いけど……輝いてるぜ……。

 

追記終わり

 そんな感じで二度目の視聴による追記は以上です!あらためて、めちゃめちゃいい作品だと思いました……。ぜひ、できるだけ多くの人に観られて欲しいですね~。

 

感想(追記2)

 

神楽ひかり VS 愛城華恋

 神楽ひかりが愛城華恋の遺体を抱きかかえているシーン、ディズニーっぽさを感じる。いい意味で。ミュージカルっぽいのかな。そういえばTVアニメ版のひかりVSなな戦で、ひかりが覚醒するあたりもディズニープリンセスを感じた。中の人のディズニーぢから?あるいは演出のディレクションによるものが、私にはそう感じられるのかな?

 

星見純那 VS 大場なな

 他の方の感想などを見て、このレヴューをあらためて考えてみました。

 個人的な見解としては、大場ななは単に「泥臭い努力をする星見純那が好きだった」とか「星見純那の自分自身の言葉が好きだった」というわけではないと思う(それらもある)。まず「星見純那の努力の方向性が変わった(今は知識を深めたい、と言い始めた)」があり、そして「大場ななは、そのやり方では星見純那はスタァになれないと思った」。だから、方針を変えるか、そうでなければ諦めることを勧めた。善意で。ということかなと思いました。

 大場ななには、「高水準の実力に裏付けされた”正しさ”と”自信”」があるため、「あなた達はそのままじゃダメだよ」と言えてしまうし、それはほとんどの場合で正解である。実際にワイルドスクリーンバロックで指摘してみせたように。しかし星見純那がこのレヴューで大場ななを”獣”と評したのは、今現在にあって、その自信のあり方と他人への口の出し方が度を過ぎていると感じたからではなかろうか。

 この戦いにおいて星見純那は、「大場ななは、星見純那が自身で考えた方針では、スタァを目指せないと思っているようだ。しかしそれは見当違いであり、私はコレで行ける」と反証した。これによって大場ななの再演、「大場ななが全てをコントロールし、プロデュースすることが最善である99期生」が終わったのではないか。もはや大場なながレールを敷かなくとも、それぞれが(特にここでは星見純那が)自分で次の駅を見つけられるようになった。それはすなわち、大場ななと星見純那の道が別れてしまうことも意味するのであった……みたいな。

 思えば、大場ななは、99期生みんなで新国立に行きたい気持ちがあったのではないでしょうか?早い話が、星見純那にも新国立を目指して欲しかったのでは。しかし、「これからは自分で進路を決められる」と星見純那に証明されてしまった。私はもうみんなと、あるいは、みんなはもう私と一緒じゃなくていいんだ、じゃあ私も、自分自身の舞台を……ということで、大場ななの進学先も、新国立ではなくイギリス王立になったのかも。新国立じゃ収まらない才能ってことですか?怖……。

 

感想(追記3)

 

進路調査

 大場ななはまだ進路に悩んでおり(舞台女優か、裏方か)、愛城華恋は完全に白紙です。

 私の現時点での認識としては、大場ななと愛城華恋の「進路が決まっていないこと」が、他のキャラクターの「進路が決まっていること」よりも良いとされているわけではないと思います。大場ななはワイルドスクリーンバロックでこそ他のキャラクターを圧倒しますが、進路の問題については彼女の課題となっており、そこがレヴュー戦で解決されることになります。

 

ワイルドスクリーンバロック

 ここで大場ななが他の6人に伝えることは、「喋るのではなく演じ続けろ」ということで、これはこの作品の一つのテーマであり、公理なんだと思います。少なくとも大場ななはここでは一人勝ち。

 しかし、このテーマをこの時点で達成できている(もう舞台の上にいる)大場ななと天堂真矢についても、このあと敗戦が訪れます。劇場版が提示する完全な正解には至っていない?おそらく、「舞台の上にいるけど、その舞台は最善ではない」といったところ。それを星見純那に、あるいは西條クロディーヌに修正されて完成。

 大場ななは愛城華恋には手を出しませんが、個人的には「活を入れるべき段階にすら到達していないから」みたいな印象を受けています。もっと優しく、見守るしかできない状態。あるいは、この愛城華恋の状態は、大場ななではどうしようもできないことを直感しているのかも。自分で道を探す必要がある、あるいはそれを助けられるのも神楽ひかりでないといけないと感じているのかも。

 大場ななから見た愛城華恋については、進路を決めて浮き足立っている他のキャラクターと比べれば、「自分の舞台が見つからない」ことに向き合っているから、活を入れる必要がない、というような見方もあるようで、それもまた納得できる気がします。愛城華恋は喋ってはいないので、活入れの対象ではない。

 ワイドスクリーンバロックという元ネタの単語があったんですね。無知、および検索が疎かで恥じ入るところです……。で、そこにカタカナ一文字加えてワイルドスクリーンバロック。ワイルドは野生とか荒野とかでしょうから、「舞台の外側」を意味していそうなのは変わらないでしょうか?

 

決起集会

 他のシーンの印象が強くて感想を書けていませんでした。不覚。

 TVアニメ版からそうだけども、眞井霧子(演出)の声がかわいすぎるという印象。あ~~~~こわ~~いな~~~~(最初は何を叫んでるのか聞き取れなかった)

 雨宮詩音(脚本)が脚本を書いてある部屋に、華恋の好きなカニハニワがある。華恋の私物?それとも雨宮詩音もカニハニワが好き?舞台の小道具が置いてある部屋にも見えるので、もしや舞台で使った?そもそもこの部屋はどこでしょう。99期生の9人が住んでる星光館のような寮の一つ?寮と考えるには部屋が広すぎるし、学校の小道具置き場の一つ?それにしては雨宮詩音は私服だったような……あれは上着を脱いだ制服かな。

 ワイルドスクリーンバロック参加者のうち、天堂真矢と大場ななだけが決起集会に馴染めている。「もう舞台の上」、すなわち自らの役を理解して演じているから?ここのシーンで描かれているのが、「自分の役を演じられているかどうか」なのか、「目の前の第101回聖翔祭を見据えられているかどうか、すなわち地に足のついた目標意識を持てているかどうか」なのか、判断がついていないところです。両方かもしれないけども、以後はもう第101回聖翔祭の話は出てきません。劇場版ではあまり重視されていない気もします。

 少なくとも露崎まひる、石動双葉、花柳香子、西條クロディーヌの4人は「何かしらの理由で目の前の第101回聖翔祭に気持ちを切り替えられていない」ものとして描写されているように思います。進路調査には問題なく記入できている割に、今向き合うべき舞台を直視できていないという感じ?その理由は心的なもので、それらが以後のレヴューで解消されていくものと思われます。

 天堂真矢が決起集会に馴染めているのは、のちの天堂真矢自身の言い分からして「理想とされる舞台少女を常に演じているから」でしょうか。であれば、西條クロディーヌは天堂真矢を観察していてそれに気付き、ここからその役を暴く算段を立て始めたのかもしれませんね。一方で大場ななは、A組としてというよりはB組寄りで決起集会に参加しています。大場ななも自分の役を演じていますが、いわば「舞台を作る側の人物」を演じているのかも?それゆえに第101回聖翔祭を見据えられてはいますが、この役もまた星見純那によって暴かれることになります。

 

石動双葉 VS 花柳香子

 石動双葉は「舞台女優としてトップレベルになる」という夢は決めたものの、その道程にはまだ不安を抱いており、その不安ゆえか、目の前の第101回聖翔祭を見据えられていない。花柳香子もまた「進学せずに襲名する」という覚悟は決まったけども、トップスタァになるという憧れを捨て切れてはおらず、その可能性としても第101回聖翔祭という現実的なものではなく、キリンのオーディションへの再参加という非現実的なものを期待していた。二人とも進路は決めたが、浮き足立っており、自分の役を決めきれていないという感じ。

 この二人の戦いでは、それぞれの夢への到達時間にはラグがあり、それゆえに二人は離ればなれにならなければいけないことと、それにまつわる葛藤といざこざが描かれています。花柳香子は卒業したらもう襲名達成だけど(もちろん襲名後も技を磨き続けるのであろうけども)、一方の石動双葉はしばらくまた練習の日々が続く。この時間差を、「今まで散々わがままを聞いてきたんですから、どうか今回は私のわがままを聞いてください」ということで、「花柳香子が石動双葉の大成を待つ」という解決法で納得させる。

 今まで夢を掲げてきたのは花柳香子のほうだったけど(石動双葉はそれを追いかけてくるだけだったけど)、ここにきて石動双葉のほうがデカい夢を持ち始めた。このレヴューの勝敗については、花柳香子から見ても今の石動双葉のキラめきは認めざるを得ない……みたいな側面もあるんでしょうか。

 

神楽ひかり VS 露崎まひる

 そういえば、神楽ひかりの自主退学は取り消されるのでしょうか?そのままイギリス行きなら、第101回聖翔祭は不参加もありえる?

 露崎まひるも何か心残りがあって、自分が何の役を演じるべきか決まっていなかったという感じでしょうか。このレヴューでおそらく、愛城華恋(と神楽ひかり)に世話を焼く露崎まひるにケリをつけて、舞台女優を目指す露崎まひるに切り替えたのではないかと思います。

 本音を吐露した神楽ひかりを露崎まひるが送り出す最後のシーンの歌は、一般的なスケールから外れた音が意図的に使われているように思う。これは単にインパクトがあるからそうしているだけなのか、あるいは露崎まひるの愛情の歪みを表しているのか、はたまた愛城華恋を神楽ひかりに託そうというこのシーンに至って「その役を演じきれず感情のほころびが出ている(笑顔で送り出したいけど、自分がやりたかった役を神楽ひかりに譲る悔しさを隠しきれない、など)」といった状況を表しているのか。

 一度破壊されたミスターホワイトのプロップが、最後には修復されているそうな。気付いていなかったので、次に観る機会があれば確認したい!

 

星見純那 VS 大場なな

 大場ななの刀、特に短いほう(脇差し?)、長さがコロコロ変わりますよね……。

 このレヴューは、人の感想を見て、同意見だったり、反対意見だったりが激しい部分です。作中でも特に興味深い部分ということでもある!私の立場と、そう考える理由は以下のようなものです。

 「偉人の言葉を引用する星見純那」と「自分の言葉を使う星見純那」は単純な上下関係ではないと思っています。私の作品に対する期待として、星見純那の個性としての名言引用を貶める意図はないだろうと思うのが理由の一つです。偉人の名言といった知識を備えていることが特徴のキャラクターなので、ここで自分の言葉だけが素晴らしいということになってしまうと、他のキャラクターと差がなくなってしまいます。演出としても、大場ななから差し出された脇差しを掴むところでは、偉人の名言で自分を鼓舞しながら掴んでいると思います。自分の言葉(口上)を使うのはその後。「偉人の言葉も自分の言葉もどちらも使える」ことが星見純那の強みだと思います。大場ななにどちらが響くかはさておき。名言は自分の心を支えるのに使い、表現するのは自分の言葉という考えに至ったのかも?

 大場ななは、星見純那が自分にとって望ましくないあり方になったから自刃させようとしたわけではないと思っています。ニュアンスは近いんですが……。これも、作品として大場ななをそういう高慢なキャラクターとして描く意図はなかろうという期待によるものです。(およそ前の追記に書いたものと変わりませんが)大場ななは、星見純那がトップスタァになる……というか、幸せになる?ための道のりというものを描いていたんだと思います。それはおそらくそれなりの割合で間違っていないんでしょうけども、星見純那はその道を選ぼうとしなかった。それでは危険だからと、善意で星見純那を止めようとしたんだと思います。第99回聖翔祭の再演と同様に。でも星見純那は、大場ななが思っていたほどには弱くなく、自分で道は選べると言われてしまったという感じ。

 以上の立場の元で、さてレヴューについてなのですが、大場ななは「自分の舞台」をまだ決められていないんだと思います。進路に悩んでいることからも伺い知れますが、大場ななは「自分自身が舞台女優を目指す道」と「舞台女優を支える道(裏方の道)」で悩んでいます。幸か不幸か、大場ななには演者としての才能も裏方としての才能もあるため、どちらにも進めてしまう。レヴューの時点では、大場ななはまだ裏方の道、「99期生をサポートするという舞台(大場ななの再演)」の中にいると言えると思います。

 考察の又聞きなのですが、大場ななの刀の脇差しのほうには、裏方として大場ななの力が象徴されているという考え方があるそうです。これに基づくと、脇差しのほうを純那に奪われるということは、「舞台を作る力」をここでは純那に握られてしまったと言えるかもしれません。いつも通り大場ななは他人の舞台を(ここでは星見純那の舞台を)作ろうとしていましたが、その力を渡してしまって、「私の刀を返して」という言葉が出る。逆に星見純那からすれば、大場ななの脇差しで戦うことは「私の舞台は私で作れる」と証明することになるんだと思います。なんなら、ここでは大場ななの舞台までをも星見純那が作り出しているのかも。

 レヴューに負けて大場ななは再演が終わったことを感じ取りますが、大場ななにとっての再演とは、「99期生を自分の力で守る」ことだったと思います。特に星見純那を守り抜くことを再演の使命と思っていたのか、あるいは99期生の中で独り立ちできていなかった最後の一人が星見純那だったのか?いずれにせよ、星見純那が自分で自分の舞台を作れることを証明したことで、大場ななの再演は終了。そうすると、大場ななの進路の可能性のうち「裏方に回ってみんなを守り続ける」という選択肢が自然と消えて、「舞台女優を目指す」という自分の舞台が残る。

 舞台女優を目指すだけならば、進路調査の通り、天堂真矢らと同じく新国立を受けてもよさそうな気がします。少なくとも部分的には99期生と一緒に舞台を続けられます。そうはせず、イギリス王立を選んだ理由はなんでしょうね。あえて再び孤独になった……というには、イギリスにはおそらく神楽ひかりがいます。単に、「みんなと一緒に進学したい」の気持ちを捨て去ったうえで進路を考え直したら、イギリス王立のほうが自分向きだったのかもしれません。ここは分かりませんね……。

 星見純那のほうは、大場ななを切り伏せつつも、進学先を変えたのはなぜでしょう?単純に考えれば、レヴューの中で考え直すことがあったのかなと思います。その考え直した内容とは?これも分からないところ……。そもそも早稲田大学文学部を第一希望としていたのは、ワイルドスクリーンバロックよりも更に前の話ですから、舞台少女としての自覚を持ち直したら自然と切り替わったのかもしれませんね。知識を蓄えるだけではなく、それを表現するための手段の幅を広げたいと思ったのかもしれません。

 

西條クロディーヌ VS 天堂真矢

 天堂真矢はレヴュー時点で既に次の舞台の上にいますが、その「理想の舞台少女 天堂真矢」の役から引きずり下ろして、いわば「西條クロディーヌのライバル 天堂真矢」に変えさせるレヴューだと思います。最高

 口の中から隠していたボタンを出す描写、かっこいいですが、口の中ズタズタにならない……?あるいはさすがにそのデカさを喉から先に隠しておくのは厳しくない……?と思わないでもないです(舞台の演出だよ!)。

 天堂真矢にトドメを刺すにあたって、いかにも戦闘中といった表情ではなく、天堂真矢をも魅了するような笑顔をしている西條クロディーヌですね。わかります。

 

神楽ひかり VS 愛城華恋

 正直、どっちが勝ったのかもよくわからない!もう1回観ないとダメかも!あとパンフレット! 

 たぶん神楽ひかりの勝ちで、ここから神楽ひかりと愛城華恋が「友達でありライバル」の関係になるのかな~と思います。ただ、ここで舞台少女達は自主的に前掛けを風に流してしまう。もうレヴューも勝敗も関係ない段階に到達した?「レヴュースタァライトし終えてしまった」みたいなことも言うわけで、ここに至って9人の物語は完結した、9人の課題は全部解消されたと言えるのかもしれませんね。全員が、今後ずっと舞台少女をやっていく上で、もう何も障壁はないということ。そうだったら最高のエンディングですよね。一番好きなやつ……。

 まあTVアニメ版もそういう雰囲気の大団円でしたけども、「じゃあ次のスタァライトはどうするの?」「愛城華恋はこのあと何を目的にするの?」という問題は考えられましたので(愛城華恋の目的喪失は舞台#2でも扱われていた)、それを完全に解決して、劇場版としてやるべきことを全てやったと思われます。本当にスゴイ

 

感想(追記4)

 3回目を観てきまして、それであらためて考え直したことを書きます!1回目・2回目とはまた結構違った考え方になりました。なんで観るたびに見え方が変わるのこの映画……。

 

ワイルドスクリーンバロックについて

 キリンが「ワイルドスクリーンバロックとは、舞台少女達が始めたスタァライトの続き」みたいなことをちゃんとセリフで説明していました。セリフはかなりうろ覚えですが……。それ以外のセリフも考えると、つまるところワイルドスクリーンバロックの各レヴューは、「この二人を主演(フローラとクレール)としてスタァライトを演じたら」というif舞台になっているのではないでしょうか?レヴューが発生した理由は、観客がそれを求めたから。ゆえに、キリンを燃料としてレヴューが行われる。そして「スタァライトは別れの舞台」なので、ワイルドスクリーンバロックの全てのレヴューも決別で終わります。ただし、「スタァライトの続き」があるので、それぞれの解釈でフローラとクレールのその後まで演じられる。

 作中で「次の舞台」とか「進むべき舞台」とかがよく言及されます。てっきりそれは進路のこと?それとも第101回聖翔祭のスタァライトのこと?などと考えていたのですが、今の私の認識としては、「次の舞台」はワイルドスクリーンバロックのことだと思いました。そしてその先に進路とか「自分の舞台」といったものがあり(どういう舞台女優を目指すか?)、この二つの区別が難しい。舞台少女にとって「次の舞台」はいくつも連なっているのですが、今まず片付けなきゃいけないのがワイルドスクリーンバロックで、これを済ませなければさらに先の舞台に進めない。だから舞台少女として死んでいる。という解釈です。

 以降は主に、この解釈を元に、各キャラにとってワイルドスクリーンバロック(=スタァライト)がどう表れたのかという観点から書いていこうと思います。

 

冒頭(ひかりと華恋、キリン)

 ここからは覚えている限り映画の進行順に書いていこうと思います。しかしこの冒頭が未だに一番わけがわからない。どのタイミングで起きたことなんでしょう?TVアニメ版終了後の愛城華恋の心象風景なのか?それともこの映画の最後の愛城華恋VS神楽ひかりのワイルドスクリーンバロックの途中経過を抜粋しているのか?キリンが「私は見逃してしまったのか?いや、(今から)開演するのだ」みたいなことを言っていますが、なぜ見逃してしまったと思ったのか。何に気付いて走ってきたのか……。3回観てもここはよくわからないのでした。

 

3年生になった99期生と進路調査

 ここで新しく気付いたことと言えば、最後に星見純那とあわせて演技している愛城華恋の髪型が、11歳の時に劇団アネモネで主演女優をした時の髪型に近い(同じ?)ということ。あの髪型かっこよくて精悍でいいですよね。「行こう、あの海(虹だっけ?)の向こうへ!」のキメ台詞が印象的な当時の役に比べると、ここでは海の向こうに行こうとする星見純那を引き留める側の役になっていますね。そしてここで星見純那がやっている役と同じセリフを、イギリスに行ってしまった神楽ひかりが練習しています。11歳当時と似た姿になって拍手喝采を浴びて嬉しさを感じているように見える愛城華恋は、「(本人も気付いていないのかもしれないが)神楽ひかりとは無関係に、舞台の喜びを感じることができる」という描写のようにも見えますね。

 進路調査については特に新しい気付きはなかったかな?担任と天堂真矢のやりとりを見るに、担任の先生は新国立歌劇団出身な気がしますね。それらしい出で立ちのカッコよさがありますよね。個人的にはやはり第一志望と第二志望を両方とも新国立歌劇団にしている大場ななの凶悪さが印象的です。大場ななが悩んでいるのは「新国立を志望するべきかどうか」ではなく「俳優になるべきか裏方になるべきか」であり、いずれにせよ進学先としての新国立歌劇団レベルは本人としても担任としても疑っていないわけです。結局それですらおそらく「みんなと一緒の新国立」くらいの認識であり、吹っ切れたあとは「世界一の難関」と言及がある王立演劇学院に留学することになるし……。

 

寮でのできごと

 香子が「しょーもない」と発言するシーン。気付いたんですが、洗濯室に「This is おそうじ当番表」みたいな紙が貼ってありますね……。This isネタを使われても動じない(というか自分でもネタにしてる)天堂真矢つよし。

 ここではやはり大場ななの「みんな喋りすぎだよね」の解釈が気になるところ。以前の追記では「”演じる”の対義語として”喋る”を使っているのではないか」と書いたのですが、今はそうではなく(それ以外にも)別の意図がありそうにも思います。まず初回で受けた印象に近いのですが、「喋る」というのは暗に「秘密にしているべきことを話してしまう」というニュアンスもありますよね。それぞれの夢や未来像について軽々しく打ち明けすぎ、私達はライバルでもあるんだよ、という意味合いもありそうに思います。そして「喋る」人間のもう一つの象徴として、舞台少女であるよりもファンに近づいているということを指摘しているようにも思いました。あとは、もしかすると単に「仲良くしすぎ」を指摘しているのかも。おそらく大場なな本人も、「いずれみんな別れなくちゃいけなくなる」ということを認識していて、舞台少女を続けるためには仲良くしすぎてはいけないという感覚があるのかも。

 

幼ひかり・幼華恋

 ひかり・華恋の過去の話については、劇中でどのタイミングで挿入されてたかいまいち記憶にないので順番が正しくないかもしれません……。

 幼ひかりがかわいい(気付き)。特に最初の挨拶のシーンで、母親に呼びかけられて母親を見上げる表情がかわいい。あと翌日?、あらためて華恋に挨拶した時に片目を開けて様子をうかがうところがかわいい。

 幼華恋の、本人も自覚していないであろう負けん気が徐々に現れてくる描写が見事だと思います。おそらくは空虚だった華恋の興味関心の行き先としてキラミラに没頭していたところ、神楽ひかりに嫉妬する気持ちが生まれたところから、徐々にキラミラに飽きていったんだと思います。きっと母親が「5歳で舞台なんてすごいわね-」みたいなことを言ったあたりから嫉妬心を刺激されたのではないでしょうか?リアルな感じがします。

 二人で舞台を観た時、舞台の上にイメージとして現れるひかりと華恋は、ひかりのほうが目を閉じて死んでいますね。幼華恋の言葉で幼ひかりが元気づけられると、舞台上のひかりも目を開けて、これがひかりにとっての舞台少女としての再生だったということが語られています。映画の終盤で死んだ華恋をひかりが抱きかかえるシーンとの対比になっていますよね。

 二人が舞台を観たのが5月14日で、どうやらTVアニメ版のレヴューが始まったのも5月14日だったようです(寮のシーンが5月14日)。この映画は結局6月4日公開になったし、元の公開予定日も5月21日でしたけど、本当にうまく行っていれば5月14日に公開したかったのでは?という気がしますね。

 その後6歳になって、神楽ひかりがロンドンに行くシーンになり、画面が上に移動しながら徐々に東京タワーの描写があいまいになります。これは何の描写でしょうね……愛城華恋の中で、この日の思い出が徐々に歪んでいく様?徐々にまるで絵のように抽象化されていく様?

 

地下鉄 ~ 皆殺しのレヴュー

 地下鉄の電車の中、不思議な席順で99期生が座っていますね。大場ななは立ってる。今回も確認しそびれたのですが、ここに愛城華恋っているんですかね?

 新国立歌劇団志望組の天堂真矢・露崎まひる・石動双葉はほとんど「ファン」の様相で、たいそう浮かれています。石動双葉は「やっぱいいよな~エルドラド!」と言っていますが、彼女らはこれから新国立の見学に行くのでは?行く前に観劇したり、みんなで過去の映像を観たりしたのでしょうか。3人の向かいには西條クロディーヌと星見純那。星見純那をダシにして天堂真矢をからかおうという時に、西條クロディーヌが星見純那の肩を抱いています。スケコマシ!もっとやれ!西條クロディーヌは天堂真矢しか見ていない、星見純那は新国立を志望する3人に憧れ?妬み?を感じながらも自分は踏み出せずにいる(大量に質問リストを用意するくらいの意気込みはあるのに)……という描写でしょうか。ふてくされて遠くの席にいる花柳香子(でも見学に行くことにはしたんですね)、立ってみんなを見下ろす大場ななという立ち位置。

 その後、皆殺しのレヴューが開演します。ここで今回特に気になったのですが、のちに大場ななは「私達みんな死んでるよ」と言います。「あなた達」ではなく「私達」なので、大場なな本人を含みますよね。実際に本人も「あの子の未練を断とう」みたいなことを言うので、心残りの自覚があるようです。ここで大場ななは圧倒的な演技力で他の舞台少女に活を入れますが、そうはいっても自分自身も死んでいる。天堂真矢以外があっけなく討ち取られてしまったのは、大場ななが強いのではなく、それほどまでに他の舞台少女がキラめきを失っていたから?そしてキラめきを失っている理由なんですが、「心残りに対して真剣に向き合わずに、惰性で過ごしているから」と言えるのではないでしょうか。それらが解消されるのが、続くワイルドスクリーンバロックのレヴュー群です。

 飛び散ったトマトが口の中に入った花柳香子は、いまいちよく聞き取れないんですけど、「甘い」と言っている気がします。決起集会で大場ななが「おやつの時間はもう終わり」と言っていることもあり、おそらく今の自身らの甘さ、たるみなどを自覚するシーンと言えるのではないかと思います。決着をつけることから逃げている弱さとか、そういうのも。

 先に「ワイルドスクリーンバロックはスタァライトの続きだ」という見解を示したのですが、だとするとこの皆殺しのレヴューの立ち位置はなんなんだろう……さっそく怪しくなってきます。スタァライト本編でいえば女神達が塔に閉じ込められるシーンだと考えれば無難な気がします。「ワイルドスクリーンバロックはスタァライトの続き」というよりは、「ワイルドスクリーンバロックは、”舞台少女達が始めたスタァライトの続き”を含む、観客が求めたスタァライト」と言えばいいのかな?

 たぶんなんですけど、スタァライトにおける「二つ星」が各キャラにあるんですよね。各キャラがここまでやってきた、すなわち星摘みの塔に登ってきた理由。でも、それだけでは星詰みの塔に登って終わり。すなわちスタァライトを演じて終わりになってしまう。だからそれぞれのフローラとクレールが「スタァライトの続き」を演じて、演じきって、次の舞台に進まないといけない。二つ星とは違う目標を見つけて、みたいな。たぶん。

 それと皆殺しのレヴューには、単純に、「大場ななの勝ちレヴューを出す必要があった」というのもあると思います。作中ですごく強キャラなのに、曲付きで勝ってるレヴューは一つもありませんでしたよね?ここでケチのつけようがないくらいカッコよく勝つ大場ななを出してもらえてよかったなあと思います。

 

決起集会

 こわいなーーーーーーーーー(毎回言ってる)

 西條クロディーヌが天堂真矢を見ながら「なんでアイツだけが……」と悩んでおり、そして何かに気付いたようです。ここで問題は、「天堂真矢だけ」なのか「天堂真矢と大場ななだけ」なのかで、そして私が感じたことには、おそらく文字通り「天堂真矢だけ」なんだと思います。西條クロディーヌは大場ななに負けたことなんか気にしてない……あるいは、大場ななも何か抱えているのを見抜いていたのかも。それで天堂真矢を観察していた結果、おそらく一つの仮説に行き着いたことで、天堂真矢攻略の糸口を掴んだのではないでしょうか。天堂真矢のスパダリがよ

 後にはレヴュー中に露崎まひるが「私も怖かった」というようなことを言うように、眞井霧子の「こわいなー」は舞台少女全員の代弁になっているんだと思います。怖いけど、次の舞台に向かわないといけないよねということ。雨宮詩音が未完成の脚本を出し渋ったように、まだ完璧じゃないことが気がかりであっても、次の舞台に向かわないといけないということ。それをしていないから、舞台少女たちはキラめきを失っている、キラめけない後ろめたさがある……といったところでしょうか。

 おそらく西條クロディーヌの観察によれば、天堂真矢だけそれがない。たぶん天堂真矢だけは、もしこのあと西條クロディーヌとのワイルドスクリーンバロックを演じなかったとしても、ぼちぼちいいところまで行けてしまうのではないでしょうか。まあ、西條クロディーヌがその化けの皮を剥がして、もっとカワイくてもっと観客が観たい天堂真矢を引き出しちゃうんだけど……ね!やかましいわ

 そういえば、「聖翔音楽学園の歴史」のボードに写真が2枚貼り付けてありますが、あれはA組とB組で別々に撮った集合写真かな?と思いました。A組だけ派手な髪型・髪色のキャラクターが混じっていてちょっと面白い

 

神楽ひかりinロンドン地下鉄

 私はもう日本でやることやったし……え?華恋?はぁ~しゃーない行くかぁ……(※このあと露崎まひる)

 

愛城華恋、小学校高学年以降

 劇団アネモネに入り、バレエもやり、11歳で主演女優を経験し、モダンダンスや歌もやり、修学旅行のしおりは手つかず、スマホの使い方もイマイチわからない、おばさんに煽られるなど忙しい毎日。

 マキさんは何者なんでしょうかね?おそらく愛城華恋の母の妹?愛城華恋を焚きつけて聖翔を勧める役の人物ですが、もしかするとこの人も舞台女優経験のある人なのでしょうか。「怖いんだ?」と煽るシーンだけは何度見てもめちゃめちゃ悪役ですね……身内の焚きつけ方ではない

 中学の友達と集まっているシーンは、脳内で勝手に補完されてマ○ドナルドだと思い込んでいましたが、ちゃんと見たらミ○タードーナッツでしたね(劇中ではMY DONUTSという店名だったと思う)。

 リビングの雑誌を手に取ったら、その下に神楽ひかりの黒スト脚写真がチラ見えしたことによって愛城華恋はキラめきの暗黒面に落ちてしまいます。その罠はあまりにも非道ですよお母さん……。そうして後から追加した自分ルール「調べない」を破ってしまう。

 私の中でいまいち腑に落ちていなかった点の一つに「TVアニメ開始時点の愛城華恋はどうしてフヌケているのか」というものがあります。劇場版で描かれている愛城華恋の芸歴と熱心さを考えれば、2年生時点で愛城華恋が星見純那に順位を抜かされてキリンのオーディションから外されるということは考えにくく、愛城華恋を足止めする何かが起こったものと思います。その説明を探すとすれば、ここで自分ルールの「見ない、聞かない、調べない」を破ってしまったことによって、運命のパワーを一部喪失して失速してしまったのかな?と思いました。あるいはよほど露崎まひるに甘やかされて、1年間で溶けきってしまったかですが……。

 

花柳香子と石動双葉

 誰彼構わず「あなたならこれくらいできるわよ」と甘い声で囁きまくるもんだから、いざこざに巻き込まれる鉄火場のクロはん 西條クロディーヌは「はぁ?」じゃなくて「ハン?」って発音なの好き

 前述のように、おそらくワイルドスクリーンバロックのここからのレヴューは「この二人が主演でスタァライトをやったら?」というレヴューなのではないかと思ったわけです。つまり、この二人はどういう理由で塔を登ったのか?そしてどういう別れを迎えてしまうのか。そしてその後、スタァライト(別れ)の続きはどうなるのか?

 花柳香子と石動双葉については、双葉が香子を追いかける形で塔に登ります。石階段を登るシーンが象徴的ですね。ひたすら香子が先を走り、時々振り返って武器を交える。その繰り返し。始まりの舞台はTVアニメ版での舞台と似ていますし、ここは塔を登っている段階と言っていいと思います。そして「私のためにも」だけならまだしも、「お前のためにも」と双葉が言ってしまったところで舞台がセクシー本堂へ。ちゃんと確認できなかったんですけど、前のシーンで「一本堂→」みたいな感じの案内板が出ているんですよね。それを取り入れてのセクシー本堂。すさまじい絵面だと思います。香子に目を合わせられず、一瞬横に目を反らす双葉が印象的ですね。そのあとは名場面のデコトラ対面シーンへ。ここが「別れの舞台」に相当するところです。そして最後は双葉が香子を待たせるという約束を押し通す。子供のわがままが別の子供のわがままに書き換わる、それが二人のスタァライトの続き。

 ここでは確かに双葉がだいたい悪い気がしますね。「いつまでもそばにいる」という約束を反故にした、「お前のためでもあるんだ」と定型文を吐いた、反対されることを恐れて一番近くにいる香子に相談せずに進路を決めた、言い訳に他の女の名前を出した。そのことに双葉自身も後ろめたいからこそ何も言えない。口先がうまいほうでもない。それでも、今までの誠意がデカすぎるので、「今度は私が待たせる番」というそれだけで覆せてしまう。というより、双葉に必要だったのはただ「今度は私のわがままを聞いてください」と伝えることだったのかもしれませんね。そう話してくれれば、香子のほうは、次は自分が待つことになることくらい察してたし、その覚悟もできていた……みたいな。

 このレヴューによって、香子と双葉が怖がっていたこと、つまり本音のぶつけあいが解消されるわけですね。このしがらみに決着を付けずしては次の舞台に進めなかったということではないでしょうか。それを、観客を燃料とすることで、ワイルドスクリーンバロックという舞台にしたてあげて、解決した……というふうに解釈しました。香子も双葉も、これを経て進路は変化しませんね。彼女らにとっては単に二人の間のケジメだけが心残りだったようです。ここの二人は本当に二人の世界で完結してますね。

 

神楽ひかりと露崎まひる

 SPACE CRAZY CUPってなんですか?

 ワイルドスクリーンバロックをスタァライト(の続き)だと考えると、ここがまた面白く、また感傷的ですね。露崎まひるは神楽ひかりと同じ舞台に立ちたかった(=スタァライトしたかった)、それが心残りになっていたということになります。劇場版の露崎まひるは、愛城華恋とまったく関わりがありませんよね。愛城華恋のキラめきを追いかけて舞台をするのではなく、自分自身がスターになるために舞台をするようになっている。もしかしてTVアニメ版の5話の最後、幼い頃の自分のキラめきを再確認した時点で、もう愛城華恋への偏執は断ち切っていたんでしょうか?かなりストイックでかっこいい舞台少女になっています。とはいえ、愛城華恋のためには神楽ひかりが必要ということは認識しているようで、今の神楽ひかりには任せられないなあ……といってホラーに訴えかけるのがこの舞台。おかげで神楽ひかりは自分の心と向き合って、愛城華恋に立ち向かう準備ができるわけですね。

 皆殺しのレヴューにおける露崎まひるの扱いもだいぶあっさりしているんですよね。特に台詞などもなく星を飛ばされて終わり。さほど大きな迷いを抱えている印象はありません。露崎まひるにとっての心残りは「ひかりちゃん大丈夫かなあ」だけ。あるいは愛城華恋のことを心配するにしても、神楽ひかりのほうに根性入れればそれでOKと確信しているということでしょうか。ここも、進路に変更はなし。愛城華恋および神楽ひかりに対する心残りを片付けて、あとは自分の舞台へ。

 はたしてこの舞台で、演じていたのは二人なのでしょうか、一人なのでしょうか?もしかすると露崎まひるの一人舞台なのかも。神楽ひかりは最後まで演じてくれませんでしたね。彼女はもともと祖母に勧められてバトントワリングを始め、同様に勧められて聖翔音楽学園を目指した人物。その目標は「人を笑顔にするような女優に」といったものだったと思います。そして聖翔音楽学園の1~2年では愛城華恋と神楽ひかりに、導かれたり惑わされたりしながら塔を登りました。だから彼女にとってこの舞台は、愛城華恋と神楽ひかりに別れを告げるスタァライトだったのかもしれません。スタァライトの続きとして、彼女は元の露崎まひるに戻って再び舞台で生きることを目指す。神楽ひかりをして「まひる、舞台女優だった」と言わせしめた歌と演技の能力が、のちの新国立歌劇団入団の説得力を与えていますね。

 この舞台では、神楽ひかりも露崎まひるも「怖い」ということに言及しています。ここではおそらく、魅力的な舞台少女と共演することに対する怖さ?作中では「ファンになる」ことは舞台少女として悪しきこととして語られているように思います。やもすればファンになってしまいかねないような相手と舞台でぶつかりあうこと、それを恐れないことがここで描かれている?少なくとも、作品を通じて、怖さに立ち向かう必要性は訴えられている気がしますね。

 まひるに頭を吹き飛ばされたミスターホワイト看板が、最後にはテープで貼り付けられて復活している描写を自分でも確認しました。まひる怖い。最後の最後まで追い詰められた神楽ひかりの心を救ってくれるのがミスターホワイトなのは本当にすばらしい演出だと思う。(クラゲは?)

 

星見純那と大場なな

 このレヴューは、私の願望によってだいぶ考察が妨げられております。私の願望というのは、「偉人の言葉を引用するのも星見純那の強さの一つであって欲しい」「知識を自分の武器として育てていこうとする星見純那の判断にも一理あって欲しい」といったものです。一方でレヴューの中では星見純那自身が「こんな言葉じゃダメ」と言っているし、進学先も俳優学校に変えている。レヴューを通じて星見純那は考えをまるっきり変えてしまったのか?それともなんとか両者を結びつけられる着地点を見つけられるか?というところですね(私の葛藤の話)

 大場ななの結果から先に見てみます。先に言及したように、大場ななのほうも舞台少女として死んでいました。その理由はおそらく星見純那への愛執を捨て切れていないこと、それをぶつけることを恐れていたこと。ゆえにワイルドスクリーンバロックで、「そんなの私の純那ちゃんじゃない」「私の純那ちゃんじゃないなら潔く死ね」と思いの丈をぶつけたものと思います。そうしてこのレヴューを経て考え直し、「再演の終わり」を受け入れたし、ついに「第100回聖翔祭のスタァライトを超えるまぶしさ」も得られました(そしてやっぱりそれはまぶしい)。これは前の追記でも書いていたことですが、やはり「みんなで新国立に行って聖翔音楽学園の続きをしよう」みたいな思惑が大場ななにはあったんじゃないかと思います。しかし星見純那に「あなたの用意した舞台は要らない」と言われることで、大場ななの再演、すなわち大場なながみんなの舞台を用意することの必要がもうなくなったことを受け入れる。ゆえに、進学先も考え直して、王立演劇学院になったのかと思います。他ではなく王立演劇学院である理由は不明。単純にめちゃめちゃ才能があるから、一番いいところを選んだだけ?

 一方の星見純那ですが、レヴュー序盤は弓の攻撃で押します。これはこれでかなりのキラめきを感じさせる演出なので、決して弱そうではないのですが……大場ななのキラめきには到底及ばなかったというところ。そうして「自分の言葉」モードに切り替わり、自分が主役だという主張を通して勝利。少なくとも一つ言える変化は、「今は学んで、いつか主役を」ではなく、「今まさに私が主役だ」という主張の変化ですね。一時的に舞台の上から離れるという消極的とも考えられる進路については、大場ななとの戦いの中で切り捨てられたようです。実際のところ一度舞台から降りて、あとで再び舞台に戻ろうという考えはもしかすると、現実には愚行なのかな?この作品としては、そういう進路設計は否定されているようにも見えますね。もしかすると大場ななの要求には「熱い純那ちゃんに戻れ」「私の純那ちゃんに戻れ」の二つがあって、前者は受け入れたけど、後者は否定した、ということなのかも。あとは彼女の進学先なのですが、実際にアメリカにミュージカルの学校があるみたいですね。ブロードウェイの。新国立歌劇団でも王立演劇学院でもなくこちらを選んだという描写は、星見純那の「より色々な舞台を知る」という方針は維持しつつ、自分自身も舞台の上に居続けるという心境の変化を反映したものでしょうか。

 ワイルドスクリーンバロック、すなわちスタァライト(の続き)を、星見純那と大場ななの主演で演じきったことが、第100回聖翔祭のスタァライトを超えるまぶしさとなったことはとても感傷的です。やはり大場ななは、別れの舞台が嫌いなのに、別れの舞台にこそまぶしさを感じてしまうのでしょう。一生このあと星見純那のこと引きずるってことじゃん。罪な女よ、星見純那も……。そうして、「いつかきっと別の舞台で」が、彼女達にとってのスタァライトの続きになります。レヴューの最中に二刀流の片方を奪われたり、はっきりと次の舞台を示されたりするところから見ても、大場ななの「俳優になるか裏方になるか」の悩みも、決着がついたのでしょうか。おそらくは俳優を目指すほうに?

 

西條クロディーヌと天堂真矢

 観客全員に全身全霊のイチャこきを見せつけることをスタァライトにするな。毎日スタァライトすな(観客のほうが燃え尽きるわ) 正直この二人だけ、「スタァライトは別れの物語」というのを理解してなくないですか?また明日、じゃあないんだよ また明日お願いします

 問題はどうぶつしょうぎ(※どうぶつしょうぎではない。どうぶつしょうぎは3×4なので)で圧敗する天堂真矢の解釈。「どうぶつしょうぎ弱い天堂真矢」が求められてるから弱いのか、純粋に舞台以外ボロボロなのか、「相手が西條クロディーヌだから弱い」のか、なんなのか。そして西條クロディーヌは舞台の前といったらピーチネクター、天堂真矢は舞台の前と言ったら眠○打破なのか。わからない、これが百合であること以外は……

 スタァライト解釈的には、西條クロディーヌが天堂真矢を追いかける形で塔を登り、西條クロディーヌが天堂真矢を暴くことで別れ……別れてねえ、続きは毎日やろうね(はぁと)というのがスタァライトの続き……あのさぁ マジメにやってくんない?一番マジメにやってる人達だったわ……。強いていうと「SSR神の器 天堂真矢」と別れたって感じでしょうか。もうちょっとマジメに考えると、進路的に二人が離ればなれになることは既に決まっていました。だから別れる前に全力で対決したかった。そして離ればなれになっても、毎日ライバルだよという約束をした。そういうことかもしれませんね。

 決着となる一撃のシーンでは天堂真矢が西條クロディーヌを美しいと言いますが、ポーズなどからすると、あの額縁は鏡としても機能しそうに見えます。二人はまるで生き写し、天堂真矢が西條クロディーヌを美しいと思うように……という演出では?いくら掘ってもイチャこきしか出てこない。最高がよ

 

神楽ひかりと愛城華恋

 神楽ひかりのほうはおそらく、露崎まひるに”教育”されたので愛城華恋への向き合い方がはっきりしています。すなわち、愛城華恋に対して全力に刃を振るうということです。たぶん。しかしその前に、愛城華恋は舞台少女として死んでしまいます。まだ彼女はワイルドスクリーンバロック用の役作りができていないのです。

 ここの愛城華恋の再生産がやはり難しいです。一見では正直、「大事そうなシーンなのによくわからんまま再生産が済み、決着もついてしまった……」という印象でした。おそらくトリガーになっているのは神楽ひかりの「また手紙を書くね」「舞台で待ってる」という言葉。たしか露崎まひるに「華恋ちゃんに言えなかった言葉を言ってあげて」みたいなことを言われていましたよね。ちなみに最初の手紙って、スタァライトのチラシを折って裏面に「かれんちゃんへ」って書いただけですよね。手紙書けるか神楽ひかり?それはそうと、そのあとバミリ化した愛城華恋[┃_┃]はマッドマックスめいて爆走列車の上に固定されて嵐を抜けるわけです。

 難しいんですが……ここで再生産されるのは、あくまで「ワイルドスクリーンバロック用の役作りをした愛城華恋」なのかな?まだ「自分の舞台」はわからなくて、それでも神楽ひかりが「次の舞台」で待ってる。神楽ひかりが舞台で待ってると、なぜ走れるのか?「ここが舞台だ!」と叫びかける神楽ひかりのもとへ、過去を燃やしながら走れる理由は、ここではまだ口にしないものの、「私もひかりに負けたくない」が元からずっと原動力だったから?神楽ひかりと愛城華恋は、お互いに直接対決するのは「怖い」。でも二人は、この「次の舞台」ワイルドスクリーンバロックを演じきらないと「自分の舞台」に進めない。ということ?

 いざ向き合うと、この時点ではまだまだ神楽ひかりのほうが格上のようで、愛城華恋はキラめき(武器)も折れてしまう。それでも果敢に向き合い、ついに「私もひかりに負けたくない」という自分の感情を見つけて、伝える。これこそが「愛城華恋が始めたスタァライトの続き」で、これを見つけたことで愛城華恋は「スタァライトを演じきる」。演じきっちゃったからどうしようと神楽ひかりに訊ねると、「自分の舞台に行け」と言われる。こうして、神楽ひかりと愛城華恋は別れるけど、それぞれの「自分の舞台」によって繋がれているわけですね。たとえ、たまの帰国にオーディションが重なって会えなくとも……。神楽ひかりの「自分の舞台」については言及されていませんが、言及されていないということは、おそらく「華恋に負けない」とかそういうものではないかと思います。実質的に西條クロディーヌと天堂真矢と似たような関係……?

 そうして99期生はワイルドスクリーンバロック(それぞれのスタァライト)を演じきり、99期生にとってキリンのオーディション(観客が求める舞台)は役目を終える。もはや不要となった前掛けを捨て去り、レヴュースタァライトは完結ということではないでしょうか。たぶん。

 愛城華恋の進路は謎です。新国立でも王立でもアメリカでもないのでしょうか。空想の余地?

 レヴュースタァライト完結!最高の締めくくり!という感じなのですが、なおまだ展開は続いており、この7月中には舞台#3が予定されているのでした。俳優育成科3年生になった99期生の活躍が描かれるみたいですね。今後も何かしら情報が出てくるのかもしれませんね……私なんかまだ劇場版のパンフレット入手できてませんしね……(通販を頼みました)。

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